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「話せばわかる」


五・一五事件で凶弾に倒れた内閣総理大臣犬養毅首相の言葉は有名ですよね。


銃弾を3発も撃ち込まれていながら、撃った相手に話して分からせようするなんて、普通の人ならしませんよね。


犬養首相はどんな人物だったのでしょう。

犬養首相は、雅号を「木堂(ぼくどう)」といいます。

『論語』にある「剛毅朴訥仁に近し(意思がしっかりしていて、飾り気がなく、口数が少ないことは、仁に近い)」という言葉から、つけられた名前だそうです


犬養首相は、岡山の出身なんですよ。

現在の岡山市北区川入に生家があります。

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犬養首相の生家は、備中国庭瀬村字川入(現:岡山市北区川入)の大庄屋で、代々郡奉行を務める旧家でした。
江戸時代中期に建てられたといわれるこの生家は、主屋と土蔵が国の重要文化財になっています。
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                        ©岡山県観光連盟
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                        ©岡山県観光連盟
犬養毅は犬養家の次男として生まれました。
庄屋の仕事をしながら、儒学者でもあった父の考えで、
毅は、5歳から漢学を、10歳から経学を学びました。

ところが、13歳の時に父が病死してしまいます。
上京して学びたいと考えていた彼は、
塾を開いたり、
小田県庁地券局に勤めたりして資金を集めました。

二十歳になって、念願の上京を果たし、慶應義塾では福沢諭吉から学びました。

上京してからも金銭面での苦労は続き、
生活費や学費のために新聞の記事を書き、西南戦争の従軍記者にもなったそうです。


犬養首相の功績

犬養総理大臣について、教科書では五・一五事件のことと「話せばわかる」の言葉が出てくるぐらいで、どんなことをした人なのかはあまり語られていません。

というのも、犬養首相が第二十九代内閣総理大臣になったのが1931年(昭和6年)の12月で、
五・一五事件で暗殺されたのが1932年(昭和7年)の5月ということで、
総理大臣であった期間は、わずか5が月ほどなのです。

何かをなし遂げるには、あまりに短すぎます。

犬養首相は、何もしていないのでしょうか?

そんなことは、ありません。
彼は大きな業績を残し、政党政治の確立に貢献しました。

というのも、犬養首相には総理大臣になる前の42年にもわたる長い衆議院議員時代がありました。
犬養衆議院議員は、憲政擁護運動の先頭に立って活躍し、普通選挙の実現に力を尽くし、一部の特権階級が支配していた政治を、憲法を順守し、議会を尊重する政治に変えていったのです。

憲政の神様
帝国議会開始当初は、議員は財閥などの特権階級ばかりで、彼らが政治を支配していました。
当時の選挙は、15円(現在の60万円ぐらい)以上の税金を納めている25歳以上の男子にしか選挙権が与えられていませんでした。
結局、選挙に行け人は、国民のわずか1%ほどで、財閥ばかりだったのです。
犬養衆議院議員は、一部の財閥だけでなく、たくさんの人が政治に参加すべきだと考えていました。
そして、納税額に関係なく、すべての25歳以上の男子に選挙権が与えられる普通選挙の実現をめざして、力を尽くしました。
憲法に則り、議会を尊重する政治を求め、志を同じくする尾崎行雄とともに、
憲政擁護運動の先頭に立って活躍しました。

犬養毅は憲政の神様と呼ばれています。

犬養総理の声が聴ける!犬養木堂記念館
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犬養首相の生家のすぐ隣に、犬養木堂記念館が建っています。

犬養首相の書や手紙、写真などとともに、
当時の犬養首相の演説を録音したレコードが展示されています。
しかも、このレコードが聞けるのです。
しっかりとした口調で理路整然と語る犬養首相の演説を、ぜひ聞いてみてください。
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犬養木堂記念館から庭を望む


犬養木堂記念館
入場料無料
〒701-0161 岡山市北区川入102-1
TEL:086-292-1820
駐車場 普通車23台、大型バス2台 

犬養木堂記念館ホームぺージ
犬養木堂記念館地図