楽しい! おいしい! 岡山県

岡山県の 楽しい場所、美味しい食べ物、美しい風景をご紹介します。小さなお子さん、歴史好きの方、鉄道ファン、フルーツ好きの方、お祭りが好きな方、晴れの国岡山へぜひどうぞ。ドライブや旅行の予定をたてるのにご利用ください。

私の住んでいる岡山県の 楽しい場所、美味しい食べ物、美しい風景をご紹介します。小さなお子さん、歴史好きの方、鉄道ファン、フルーツ好きの方、お祭りが好きな方、晴れの国岡山へぜひどうぞ。ドライブや旅行の予定をたてるのにご利用ください。

岡山の偉人

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旧野﨑家住宅は江戸時代後期、製塩業と新田開発で大成功した野﨑武左衛門さんの家です。
敷地面積は約3000坪、建物の延床面積は1000坪あります。
ただ広いだけでなく、建物も庭も趣向が凝らされており、
思わず、「ほう」とため息が出るものばかりです。
そこ、ここに、来客をもてなす気持ちがあふれています。
では、旧野﨑家住宅の素敵なところをご紹介しますね。

上の写真は、入り口の長屋門です。
個人の住宅とは思えないほどの立派な門です。
これとは別に、藩主池田公などの要人を迎えるための御成門があります。

御成門の正面に表書院があり、来客用の座敷になっています。
庭先は歩きやすいように平らな石が埋めてあるのですが、
その中の一つが、ほかの5倍ぐらいあるような巨大な石でした。
これは、「お駕籠石」と呼ばれるもので、
お客さんが
駕籠からおりるのに使われていたそうです。

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写真は、表書院上の間から下の間に向けて撮影したものです。
下の間がはるか遠くに見えます。

見学に行ったのが夏だったので、ふすまも夏用の涼しげなものになっていました。
上の間からは、美しい庭園が見えます。

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写真は一部だけですが、この庭園はもっと広いです。

奥のほうで木々に見え隠れしているのが、1つ目の茶室です。
この写真の右側の奥のほうに2つ目の茶室があり、
更に、そこから右手の奥のほうに3つ目の茶室があります。

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表書院の脇には、めずらしい水琴窟があります。
竹筒から流れる水が地面にこぼれると、
地中に埋めてある壺に反響して、カランコロンといい音がします。
ぜひ聞いてみてくださいね。

奥に進んでいくと、石の鳥居が見えてきます。
自分の家の庭に立派な祠があるのです。
武左衛門さんは、毎日ここで家業繁栄を祈願されていたことでしょう。

さらに奥に行くと、また別の座敷が出てきます。
中座敷です。
ここは、一番奥まで見通せます。
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写真ではよくわかりませんが、一番奥の床の間に掛け軸がかかっているのが見えます。
ふすまを外せば、巨大な宴会場ができます。
いったい何畳あるのでしょう。
大富豪の家は違いますね。

3つ目の茶室は、この中座敷のすぐ横に有ります。
3畳ほどのしゃれた建物です。

裏手に回ると、台所があります。
台所と言っても、43坪もあります。
台所だけで、我が家の敷地と同じぐらいあります(笑)
床は衛生面を考えて石畳になっています。
見えないところにもお金をかけるんですねえ。

中には、お客様用の高価な食器や、使用人の食事用の箱膳、
そして、発明されたばかりであろう家電類が展示されてます。
「珍しいものは野﨑家にもっていけば何でも買ってくれる」と、
商人たちは思ったようで、
当時としては珍しいあらゆる家電がありました。

岡山に電気が普及するのは、ずっと後ですが、
野﨑家は自家発電で、明治24年には電灯がともっていたようです。

台所には、変わった形の電気ストーブや、自動洗米機、トースター、
万能七輪(電熱器)、ワッフル焼き器やパンを焼く釜などもあります。

今では、普通にあるものですが、
当時の人たちは、さぞやびっくりしたことでしょう。

このほか、みそを作るためだけの小屋、
漬物樽がたくさん並んだ漬物専用の小屋もありました。

これだけの大きな建物ですから、使用人も相当数いたと思われます。
いったい何人分のご飯を作っていたんだろうと思います。

野﨑家には立派な倉が4つもあります。
今は、1つの倉はギャラリーにして、貴重な陶芸品などを展示しています。
別の倉は、江戸時代からの塩づくりの貴重な資料や道具を展示しています。

旧野﨑家住宅のホームページには、
実際に歩いているように見学できる3Dマップがあります。
見学に行っても入れない座敷の中まで見られるようになっている優れものです。
音声ガイドもyoutubeで聞けるようになっています。
これから行かれる人も、一度行った人も、とても楽しめますよ。
旧野﨑家住宅のホームページはこちら
館内3Dマップをご覧ください。

いろいろと資料を読んでいると、
野﨑武左衛門さんも、とんとん拍子に大富豪になったわけではなさそうです。

もともと、あちこちの大庄屋と縁組するような家柄の家に生まれましたが、
武左衛門さんの時代には、家は衰えていたようです。
武左衛門さんは、妻と母の縫った足袋を、父とともに行商で売っていたそうです。
足袋の行商は成功し、数年で使用人をやとうまでになりましたが、
売掛金が回収できず、またまた大ピンチに陥ります。
そこで、親戚や藩からお金を融資してもらい、
塩田事業に乗り出したのでした。

製塩業や新田開発で財産を築いた後は、
捨て子を育てたり、貧困者を救済するといった社会貢献にも熱心に取り組みました。
やはり、苦労された人は優しいですね。

「武左衛門さんの製塩業は、今はナイカイ塩業株式会社になって、引き継がれています。
食卓に上る塩や、医療用の塩として使われています。
ナイカイ塩業の名は、あまり聞かれないかもしれませんが、
味の素が販売している「アジシオ」「瀬戸のほんじお」といえば、
「あー、知ってる」と言われる方も多いのではないでしょうか。
ナイカイ塩業の塩は、これらの製品の原料になっています。
武左衛門さんの手がけた瀬戸内海のおいしい塩を、使ってみてくださいね。

野﨑家旧宅
 〒711-0913 岡山県倉敷市児島味野1-11-19
 TEL 086-472-2001
 FAX 086-472-2636
 E-mail nozakike@mx2.kct.ne.jp

営業時間
 9:00 ~16:30(17時閉門)
 休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始(12/25~1/1)

駐車場 
 【 無料 】大型バス 5台  乗用車 36台

料 金
  大人(高校生以上) 500円
  小中学生      300円
  幼 児        無 料
 ※小中学生・高校生は、土曜日・日曜日・祝日は無料になります。
 ※障害者手帳をお持ちの方は、本人と付き添い1名が2割引になります。


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池田茂政公(岡山市史より)

池田茂政(もちまさ)は、水戸藩主徳川斉昭の9男で、
請われて婿養子なり、第13代岡山藩主になりました。

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幕末の岡山藩は、幕府側につくか、朝廷側につくかで揺れていました。
先代の藩主、池田慶政公は尊皇翼覇(天皇を尊重しながらも、幕府を補佐する)という考えでした。

しかし、藩内では、次第に尊皇攘夷の考え方が主流になってきました。
そこで、家臣の進言を受け入れて、尊皇攘夷の考えを持つ水戸藩主・徳川斉昭の息子を婿養子として迎えたのでした。

藩主ならば、家臣の意見よりも、自分の考えを主張すればよさそうなものですが、
実は、第12代藩主・池田慶政(よしまさ)は、中津藩主の息子で、彼も婿養子として藩主になったのです。。

ついでに言えば、その前、第11代藩主・斉敏も、島津斉彬の兄弟で、婿養子として藩主になりました。

岡山藩は、第10代藩主・池田斉政(なりまさ)の嫡子・斉輝が23歳の若さで亡くなって以来、
3代続けて婿養子が藩主になっているのです。

一方、家臣は、何代にもわたって岡山に住んでいる土着の武士です。
物申す力も強かったのではないでしょうか。
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後楽園より岡山城を望む      晴れの国写真館より

とにもかくにも、水戸藩・徳川斉昭の息子を迎え、
岡山藩は尊皇攘夷という立場で一致団結しました。

同じ尊皇攘夷の立場をとる長州藩には友好的で、
8月18日の政変のときも、長州藩への寛大な処分を朝廷に願い出ています。

第一次長州征討のときも、長州への寛大な措置を願い出ていましたが
長州征討が勅命ということで、
やむなく、自らは8㎞ほど先の一宮あたりまで出馬し、
家老を広島まで派遣しました。

第二次長州征討のときは、大半の家臣が出兵に反対し、茂政も出兵には反対でした。
しかし、結局は勅命に背くことはできないと、しぶしぶ備後路あたりまで出兵しました。

当然、このような消極的な態度は、幕府に疑いの目を向けられました。

しかしながら、こうして、尊皇攘夷をとなえながらも幕府の言うことも聞いているということで、
なんとか、朝敵とならず、幕府からも咎められず、岡山藩を存続する道を模索していました。

・・・が、運命は皮肉なものです。

茂政が婿入りした1863年、将軍は紀伊徳川家出身の第14代将軍・家茂でした。
しかし、1867年、実の兄で一橋家の養子となっていた慶喜が、
第15代将軍になったのです。

二人の父、徳川斉昭は子だくさんで、なんと37人(22男15女)の子どもがいました。

慶喜は嫡子で7男、茂政は庶子で9男、二人は2歳違いの兄弟です。

年が近いと、考え方も近かったのでしょう。

慶喜が禁裏御守衛総督になったころ、
慶喜、茂政、慶喜と同じ年で5男の鳥取藩主・池田慶徳、水戸の天狗党の首領・武田耕雲斎らは、
提携して、幕府とは別の新勢力を築こうとしていました。

二人は同じ理想を描いていたはずでした。

しかし、慶喜は将軍となり、
茂政は、尊皇攘夷の立場をとる岡山藩の藩主になりました。

大政奉還ののちは、今度は朝廷側から次々と幕府方の追討命令が出されます。

鳥羽伏見の戦いの後には、同じ岡山県の備中松山藩の追討を命じられます。

備中松山藩の藩主・板倉勝静が老中首座として慶喜と行動を共にしていたことから
松山藩は朝敵とされたのでした。

藩主不在の松山城。

攻めてきたのが長州藩なら戦うつもりでした。

しかし、錦の御旗を掲げて攻めてきたのは備前岡山藩。

松山藩主・板倉勝静が命を懸けて仕えている慶喜の弟です。

朝敵とされているのも、心外なことでした。

結局、備中松山藩は、戦火を交えて民を苦しめることを避け、無血開城します。

兄のために力を尽くしている板倉勝静のことを思うと、
茂政公も心が痛んだにちがいありません。

でも、勅命であれば、従わないわけにはいきません。

同じように、姫路藩の追討も命じられました。

姫路藩主酒井忠惇(ただとう)は老中として、慶喜と行動を共にしていたため、
朝敵とされ、攻撃するように命じられたのでした。

姫路城は、池田家の先祖、輝政公が一族の繁栄を願って作ったお城です。

そして姫路藩主は、兄、慶喜のために今も戦っているのです。

茂政公にとっては、これも辛い役目だったに違いありません。

岡山藩はいきなり攻撃はせず、朝敵となって追討を命ぜられたことを姫路藩に伝えました。

姫路藩は、家臣団の会議の結果、城を明け渡すことを決めました。

このまま、話し合いだけで、無血開城できたのです。

しかし、長州藩は「手ぬるい!岡山が攻撃しないなら、長州が攻撃する!」と脅してきました。

強硬派の長州藩に攻撃させたら、姫路城も城下もことごとく破壊されるでしょう。
しかたがありません。

岡山藩は姫路城を砲撃することにしました。

実弾と空砲を合わせて4~5発程度。

もともと姫路城を無血開城することになっていたのだし、
茂政も姫路城を破壊したいなどとは思っていないのですから、それで十分です。

しかし、その中の一発は城南西の福中門を直撃しました。

無血開城の約束をしたにもかかわらず、備前が攻めてきたと、
姫路藩は大混乱に陥りました。

そして・・・
ついに茂政公が最も恐れていた勅命が出たのです。

「慶喜を追討せよ!」

かつては共に理想を語った兄でした。

兄弟力を合わせて、一緒に新しい世を作るはずでした。

その兄を追討せねばならないとは・・・

なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。

茂政公は運命を恨んだことでしょう。

「兄は討てぬ…」

それが、茂政公の出した答えでした。

茂政公は、藩主の座を降り、隠居したのでした。
池田家和意谷墓所
備前市和意谷にある池田家墓所   晴れの国写真館より

激動の時代、茂政公が藩主だったのは1863年-1868年のわずか5年ほどの間です。

けれど、藩のため、兄のため、出来ることはすべてやった5年間でした。

茂政公は幕末の名君だったと、私は思っています。

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「話せばわかる」


五・一五事件で凶弾に倒れた内閣総理大臣犬養毅首相の言葉は有名ですよね。


銃弾を3発も撃ち込まれていながら、撃った相手に話して分からせようするなんて、普通の人ならしませんよね。


犬養首相はどんな人物だったのでしょう。

犬養首相は、雅号を「木堂(ぼくどう)」といいます。

『論語』にある「剛毅朴訥仁に近し(意思がしっかりしていて、飾り気がなく、口数が少ないことは、仁に近い)」という言葉から、つけられた名前だそうです


犬養首相は、岡山の出身なんですよ。

現在の岡山市北区川入に生家があります。

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犬養首相の生家は、備中国庭瀬村字川入(現:岡山市北区川入)の大庄屋で、代々郡奉行を務める旧家でした。
江戸時代中期に建てられたといわれるこの生家は、主屋と土蔵が国の重要文化財になっています。
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                        ©岡山県観光連盟
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                        ©岡山県観光連盟
犬養毅は犬養家の次男として生まれました。
庄屋の仕事をしながら、儒学者でもあった父の考えで、
毅は、5歳から漢学を、10歳から経学を学びました。

ところが、13歳の時に父が病死してしまいます。
上京して学びたいと考えていた彼は、
塾を開いたり、
小田県庁地券局に勤めたりして資金を集めました。

二十歳になって、念願の上京を果たし、慶應義塾では福沢諭吉から学びました。

上京してからも金銭面での苦労は続き、
生活費や学費のために新聞の記事を書き、西南戦争の従軍記者にもなったそうです。


犬養首相の功績

犬養総理大臣について、教科書では五・一五事件のことと「話せばわかる」の言葉が出てくるぐらいで、どんなことをした人なのかはあまり語られていません。

というのも、犬養首相が第二十九代内閣総理大臣になったのが1931年(昭和6年)の12月で、
五・一五事件で暗殺されたのが1932年(昭和7年)の5月ということで、
総理大臣であった期間は、わずか5が月ほどなのです。

何かをなし遂げるには、あまりに短すぎます。

犬養首相は、何もしていないのでしょうか?

そんなことは、ありません。
彼は大きな業績を残し、政党政治の確立に貢献しました。

というのも、犬養首相には総理大臣になる前の42年にもわたる長い衆議院議員時代がありました。
犬養衆議院議員は、憲政擁護運動の先頭に立って活躍し、普通選挙の実現に力を尽くし、一部の特権階級が支配していた政治を、憲法を順守し、議会を尊重する政治に変えていったのです。

憲政の神様
帝国議会開始当初は、議員は財閥などの特権階級ばかりで、彼らが政治を支配していました。
当時の選挙は、15円(現在の60万円ぐらい)以上の税金を納めている25歳以上の男子にしか選挙権が与えられていませんでした。
結局、選挙に行け人は、国民のわずか1%ほどで、財閥ばかりだったのです。
犬養衆議院議員は、一部の財閥だけでなく、たくさんの人が政治に参加すべきだと考えていました。
そして、納税額に関係なく、すべての25歳以上の男子に選挙権が与えられる普通選挙の実現をめざして、力を尽くしました。
憲法に則り、議会を尊重する政治を求め、志を同じくする尾崎行雄とともに、
憲政擁護運動の先頭に立って活躍しました。

犬養毅は憲政の神様と呼ばれています。

犬養総理の声が聴ける!犬養木堂記念館
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犬養首相の生家のすぐ隣に、犬養木堂記念館が建っています。

犬養首相の書や手紙、写真などとともに、
当時の犬養首相の演説を録音したレコードが展示されています。
しかも、このレコードが聞けるのです。
しっかりとした口調で理路整然と語る犬養首相の演説を、ぜひ聞いてみてください。
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犬養木堂記念館から庭を望む


犬養木堂記念館
入場料無料
〒701-0161 岡山市北区川入102-1
TEL:086-292-1820
駐車場 普通車23台、大型バス2台 

犬養木堂記念館ホームぺージ
犬養木堂記念館地図




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