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坂本龍馬と岡山藩?聞いたことないなあ、
京都に行く途中で通りすぎただけじゃないの?

いえいえ、そんなことはありません。

竜馬と行動を共にしている中岡慎太郎の『海西雑記』に、
岡山藩との会合の記録が書かれています

『海西雑記』を読むと、岡山藩士との会合が2回あったことが分かります。

『海西雑記』はこちらで見られます。コマ番号221,223

1度目は、1865年2月17日、場所は京都です。
その日会った人物の記録として 

   水戸 河邊 春次郎
   備前 津田彦左衛門 河邊源大夫

の名前が載っています。
津田彦左衛門は備前岡山藩の尊王攘夷派の藩士で、
筆頭家老伊木忠澄の側近と言われています。

2度目は、1865年6月15日、場所は藤井宿です。
『海西雑記』には次のように書かれています。

  六月朔、
  同十四日、備前西大寺に宿す、
  同十五日、藤井驛に宿す、周旋客津田彦左衛門、伊木大夫臣小松原源治面會、


藤井驛は、西国街道(山陽道)で岡山城下に一番近い宿場町「藤井宿」のことです。
ここでは、津田彦左衛門の他、筆頭家老伊木氏の家臣の小松原源治と面会しています。

当時岡山藩の中では尊王攘夷派の藩士が多数を占めていました。

先代の藩主池田慶政は尊王翼覇(勤皇と佐幕の折衷案)の考えでした。
この方は養子の藩主で、岡山藩が尊王攘夷の考えになったため、隠居し、
1863年に尊王攘夷で知られる水戸斉昭公の9男を、
新しい藩主池田茂政として迎えました。
藩主と家臣が尊王攘夷の考えで一致したことから
1864年の第1次長州征伐では、岡山藩を代表して筆頭家老の伊木忠澄が
姫路に出向いて、征長総督の徳川慶勝に進軍の中止を求めました。

これは却下されてしまいましたが、岡山藩は別の手を考えました。

第一次長州征伐の軍が必ず通る山陽道を、遠回りするように付け替えたのです。

もともと山陽道は藤井宿から平坦な道をまっすぐに岡山城下に入っていく道でした。
表向きは、浪人や無法者を城下に入れないため、という理由をつけて、
藤井宿から道を変え、岡山城下を大きく迂回する新往来をつくりました。

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この新しい山陽道は、道が狭いうえにアップダウンの多い山道という悪路で、
岡山城下のはるか北まで迂回して広島方面へぬけていく道でした。
この道を通らされた長州征伐軍はかなり遅れ、
やっとのことで通過した兵もくたくたに疲れ果てていたと言います。

長州征伐に反対したことで、幕府に疑いの目で見られている岡山藩は
表立って動くことはできませんでした。
竜馬や中岡慎太郎との会談も、城下ではなく隣の宿場町にし、
家老は動かず、部下を代理として交渉させたのでした。

岡山藩と竜馬たちが会談した藤井宿はどんなところか、
車で行ってみました。


藤井宿
岡山城を出て最初の宿場町ということで、
距離でいえば、岡山城から京橋経由で10キロほどのところにあります。
・・・と、言うのは簡単ですが、
車社会に慣れている私は、この距離を歩けと言われたら、正直泣きます。
江戸時代、参勤交代の大名行列は、荷物を抱えて、
この距離を歩いていたのかと思うと頭が下がります。
参勤交代で江戸へ行くというのは、岡山から東京まで歩けということなんだと
あらためて感じました。
お金も時間もかかり、歩き疲れる、まったく、ひどい制度です。

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藤井宿には、参勤交代の大名行列がたくさん立ち寄り
殿様が泊まる本陣が1つでは足りなくなったため、
東本陣と西本陣の2つがありました。

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                      東本陣
本陣の周りには旅籠等がならび、大変な賑わいだったそうですが、
今は、旅館などもなく古い町並みが静かにたたずんでいます。

山陽道(西国街道)は、京都から九州方面に行くメインストリートですが、
思っていたより道幅は狭く、車が1台なら通るけど、2台はすれ違えない道幅です。
江戸時代の交通が馬か籠か歩きだったことを思えば、これで十分なのかもしれません。

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藤井宿の西の端に、素戔嗚神社があります。
その右手に、北に向かって伸びる道が見えます。
これが1864年に岡山藩が付け替えた山陽道の新往来です。

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北に向かって伸びる新往来の道は、この先、山につきあたり、
牟佐のほうまで北上して旭川を渡っていたようです。

当然のことですが、この道は通行人には嫌がられました。
やがて、人々は無理やり元の山陽道を通るようになり、
新往来は使われなくなっていきました。

使われない道は忘れられ、今ではどこが道だったのかわからなくなっています。

長州征伐に関しては、この道の効果は絶大で
毛利家が大変喜び、藩主池田茂政と筆頭家老伊木忠澄の志が厚いことを知った
という記録が残っています。

竜馬たちと藤井宿で会談の後、
尊王攘夷派の藩主池田茂政の兄が、徳川慶喜として将軍になるという
岡山藩にしてみれば「まさか!」の出来事がありました。
しかし、第二次長州征伐でも、岡山藩は形だけの出兵をし、
長州に攻め入ることはありませんでした。