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岡山市の中心部にある岡山城。
城壁を高価な黒漆で塗った、黒いお城です。
黒く輝く姿から烏城(うじょう)と呼ばれています。

この地に初めて城を作ったのは、戦国武将浮田秀家でした。
秀家は9歳で父を亡くし、家督を相続しました。
そのため、幼い主君を守る家臣たちの結束は大変強かったと言われています。

温厚で利発な少年君主は、中国攻めに来た豊臣秀吉に気に入られ、
養子のようにかわいがられました。
そして、わずか10歳で57万4千石の大大名になったのです。
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           宇喜多秀家(岡山城蔵)
宇喜多秀家は戦国武将とは思えないほどの美男子だったそうです。
なるほど、ジャニーズ系のイケメンですねえ。

秀家はその後も、次々と武功を上げ、
前田利家の娘、豪姫を妻に迎えて、
8年かけて壮大で美しい岡山城を作りました。
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       屋根には金箔瓦が使われており、金烏城とも呼ばれています

順風満帆だった秀家の人生は、秀吉の死により変わっていきます。
関ケ原の戦いでは、大恩ある豊臣家のために、17,000人を率いて西軍として戦いましたが、
小早川秀秋の裏切りにより、西軍は破れます。
秀家は、息子とともに八丈島に流刑となり、長い流刑生活の末、84歳で八丈島で亡くなります。
妻であった豪姫は前田家に返されますが、
秀家との絆は強く、八丈島に米などの仕送りを続けました。
二人は生涯二度と会うことはできませんでしたが、
豪姫のおかげで宇喜多秀家は戦国時代に最も長生きした武将になりました。
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            宇喜多秀家の時代の石垣が残っています。(見学自由)


代って岡山城に入ったのは、あの小早川秀秋でした。
関ケ原の戦いで東軍に寝返り、東軍に勝利をもたらした論功行賞というわけです。
彼は、岡山城の外堀の外側に、たった20日の突貫工事で2倍の幅の堀を作りました。
これによって、岡山城の広さは、一気に2倍になりました。
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小早川秀秋は、総検地をおこなったり、寺社領の再整備をしたりと精力的に改革を進めたのですが、
領主になってわずか1年10か月、21歳の若さで急死します。
酒におぼれて体調を崩したためともいわれていますが、死因ははっきりしていません。


次に城主になったのは、5歳の池田忠継でした。
15歳ではありません。ただの5歳です。
今なら保育園や幼稚園に通っている年ごろの坊やが、
巨大な岡山城を受け継いだのです。

どうしてそんなことができたのでしょう?

父は豊臣政権下では西国将軍と言われた池田輝政、
力のある外様大名で、警戒するべきはずの人物です。
しかし、池田輝政の妻は徳川家康の次女督姫でした。

そのため、外様大名であっても、家康は池田輝政を厚遇し、
播磨の国52万石を与え、姫路城主とします。
そして、息子の忠継も28万石をもらって岡山の城主になりました。

天下人の家康も、娘や孫はかわいいのですね。
以後、岡山城は幕末まで池田家の居城でした。


岡山城が完成したのは、二代目藩主池田忠雄の時代。
32棟の城門で守られ、五重の堀に囲まれた堅固な城になりました。
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残念ながら、明治の廃城令(明治6年)以降、解体が進み、堀も埋められ、
明治15年ごろには、天守閣、塩蔵、月見櫓、西手櫓、石山門の5棟だけになっていました。
昭和まで残った建物は国宝になりました。
しかし、昭和20年の岡山空襲で、天守閣、塩蔵、石山門が焼け落ちてしまい、
月見櫓と西手櫓だけになってしまいました。

現在の天守閣は、1960年代に再建されたものです。
不明門と廊下門もこの時再建されました。

岡山市民の私は、再建後の天守閣が岡山城だと思っていたので、
岡山城は小山の上のちっちゃいお城、と思っていたのですが、
できることなら、江戸時代の、32の城門と五重の堀をもつ岡山城の雄姿を見たかったですねえ。
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空襲による焼失をまぬがれた月見櫓と西手櫓は、国の重要文化財になっています。
月見櫓は1620年に建てられたと言われています。
時々特別公開をしていて、内部が見学できますよ。

岡山城は「令和の大改修」工事のため、令和3年6月1日~令和4年秋まで休館中です。
令和3年9月には工事用のシートで覆われるということです。
令和4年秋、改修後の姿が楽しみですね。