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池田茂政公(岡山市史より)
池田茂政(もちまさ)は、水戸藩主徳川斉昭の9男で、
請われて婿養子なり、第13代岡山藩主になりました。
幕末の岡山藩は、幕府側につくか、朝廷側につくかで揺れていました。
先代の藩主、池田慶政公は尊皇翼覇(天皇を尊重しながらも、幕府を補佐する)という考えでした。
しかし、藩内では、次第に尊皇攘夷の考え方が主流になってきました。
そこで、家臣の進言を受け入れて、尊皇攘夷の考えを持つ水戸藩主・徳川斉昭の息子を婿養子として迎えたのでした。
藩主ならば、家臣の意見よりも、自分の考えを主張すればよさそうなものですが、
実は、第12代藩主・池田慶政(よしまさ)は、中津藩主の息子で、彼も婿養子として藩主になったのです。。
ついでに言えば、その前、第11代藩主・斉敏も、島津斉彬の兄弟で、婿養子として藩主になりました。
岡山藩は、第10代藩主・池田斉政(なりまさ)の嫡子・斉輝が23歳の若さで亡くなって以来、
3代続けて婿養子が藩主になっているのです。
一方、家臣は、何代にもわたって岡山に住んでいる土着の武士です。
物申す力も強かったのではないでしょうか。
後楽園より岡山城を望む 晴れの国写真館より
とにもかくにも、水戸藩・徳川斉昭の息子を迎え、
岡山藩は尊皇攘夷という立場で一致団結しました。
同じ尊皇攘夷の立場をとる長州藩には友好的で、
8月18日の政変のときも、長州藩への寛大な処分を朝廷に願い出ています。
第一次長州征討のときも、長州への寛大な措置を願い出ていましたが
長州征討が勅命ということで、
やむなく、自らは8㎞ほど先の一宮あたりまで出馬し、
家老を広島まで派遣しました。
第二次長州征討のときは、大半の家臣が出兵に反対し、茂政も出兵には反対でした。
しかし、結局は勅命に背くことはできないと、しぶしぶ備後路あたりまで出兵しました。
当然、このような消極的な態度は、幕府に疑いの目を向けられました。
しかしながら、こうして、尊皇攘夷をとなえながらも幕府の言うことも聞いているということで、
なんとか、朝敵とならず、幕府からも咎められず、岡山藩を存続する道を模索していました。
・・・が、運命は皮肉なものです。
茂政が婿入りした1863年、将軍は紀伊徳川家出身の第14代将軍・家茂でした。
しかし、1867年、実の兄で一橋家の養子となっていた慶喜が、
第15代将軍になったのです。
二人の父、徳川斉昭は子だくさんで、なんと37人(22男15女)の子どもがいました。
慶喜は嫡子で7男、茂政は庶子で9男、二人は2歳違いの兄弟です。
年が近いと、考え方も近かったのでしょう。
慶喜が禁裏御守衛総督になったころ、
慶喜、茂政、慶喜と同じ年で5男の鳥取藩主・池田慶徳、水戸の天狗党の首領・武田耕雲斎らは、
提携して、幕府とは別の新勢力を築こうとしていました。
二人は同じ理想を描いていたはずでした。
しかし、慶喜は将軍となり、
茂政は、尊皇攘夷の立場をとる岡山藩の藩主になりました。
大政奉還ののちは、今度は朝廷側から次々と幕府方の追討命令が出されます。
鳥羽伏見の戦いの後には、同じ岡山県の備中松山藩の追討を命じられます。
備中松山藩の藩主・板倉勝静が老中首座として慶喜と行動を共にしていたことから
松山藩は朝敵とされたのでした。
藩主不在の松山城。
攻めてきたのが長州藩なら戦うつもりでした。
しかし、錦の御旗を掲げて攻めてきたのは備前岡山藩。
松山藩主・板倉勝静が命を懸けて仕えている慶喜の弟です。
朝敵とされているのも、心外なことでした。
結局、備中松山藩は、戦火を交えて民を苦しめることを避け、無血開城します。
兄のために力を尽くしている板倉勝静のことを思うと、
茂政公も心が痛んだにちがいありません。
でも、勅命であれば、従わないわけにはいきません。
同じように、姫路藩の追討も命じられました。
姫路藩主酒井忠惇(ただとう)は老中として、慶喜と行動を共にしていたため、
朝敵とされ、攻撃するように命じられたのでした。
姫路城は、池田家の先祖、輝政公が一族の繁栄を願って作ったお城です。
そして姫路藩主は、兄、慶喜のために今も戦っているのです。
茂政公にとっては、これも辛い役目だったに違いありません。
岡山藩はいきなり攻撃はせず、朝敵となって追討を命ぜられたことを姫路藩に伝えました。
姫路藩は、家臣団の会議の結果、城を明け渡すことを決めました。
このまま、話し合いだけで、無血開城できたのです。
しかし、長州藩は「手ぬるい!岡山が攻撃しないなら、長州が攻撃する!」と脅してきました。
強硬派の長州藩に攻撃させたら、姫路城も城下もことごとく破壊されるでしょう。
しかたがありません。
岡山藩は姫路城を砲撃することにしました。
実弾と空砲を合わせて4~5発程度。
もともと姫路城を無血開城することになっていたのだし、
茂政も姫路城を破壊したいなどとは思っていないのですから、それで十分です。
しかし、その中の一発は城南西の福中門を直撃しました。
無血開城の約束をしたにもかかわらず、備前が攻めてきたと、
姫路藩は大混乱に陥りました。
そして・・・
ついに茂政公が最も恐れていた勅命が出たのです。
「慶喜を追討せよ!」
かつては共に理想を語った兄でした。
兄弟力を合わせて、一緒に新しい世を作るはずでした。
その兄を追討せねばならないとは・・・
なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。
茂政公は運命を恨んだことでしょう。
「兄は討てぬ…」
それが、茂政公の出した答えでした。
茂政公は、藩主の座を降り、隠居したのでした。
備前市和意谷にある池田家墓所 晴れの国写真館より
激動の時代、茂政公が藩主だったのは1863年-1868年のわずか5年ほどの間です。
けれど、藩のため、兄のため、出来ることはすべてやった5年間でした。
茂政公は幕末の名君だったと、私は思っています。