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岡山県久米郡美咲町柳原地区には東洋一とうたわれた柵原鉱山(やなはらこうざん)がありました。
柵原鉱山で採掘されているのは「硫化鉄鉱」(りゅうかてっこう)という鉱石です。
おや、金や銀でなくて、ちょっとがっかりですか?
いえいえ、当時、硫化鉄鉱は黄色いダイヤと言われるほど価値のあるものだったのです。
硫化鉄鉱には、硫黄が52%、鉄が45%含まれており、
硫黄は硫酸や肥料の原料に使われ、
鉄は酸化鉄(ベンガラや磁性体)として使われていました。
東洋一と言われた理由の一つは、硫化鉄鉱の質がとても良いこと、
もう一つは埋蔵量が豊富なことでした。
昭和20年、第二次世界大戦後の日本は、深刻な食糧危機にみまわれていました。
戦争を生き残っても、戦後の食糧不足で飢えて亡くなる人がたくさんいたのです。
若い方には信じられないかもしれませんが、
昭和20年の10月には、日本で「1,000万人餓死説」が流れたほどです。
食料の増産は国の最優先の政策でした。
食料増産のためには、肥料は欠かせません。
その肥料を生み出す硫化鉄鉱を採掘する柵原鉱山は、国にとっても大切なものでした。
昭和天皇が柵原鉱山に来られたのは、昭和22年の戦後巡幸でのことでした。
昭和天皇の岡山県巡幸は、12月8日~12月11日の4日間だったのですが、
4日目の12月11日、柵原鉱山に来られたのです。
柵原鉱山は山ですから、都市部の岡山市や倉敷市のように、
すぐに行ける便利な場所ではありませんでした。
当時は、今のように舗装されたきれいな道もなかったでしょう。
そんな山間の町に、天皇陛下が来られたのです。
鉱山の人々は、さぞかし誇らしく、嬉しく思ったことでしょう。
そして、それほどに、柵原鉱山は重要な場所だったのです。
実際、天皇陛下は柵原鉱山を訪れるのにとても時間がかかったのだと思います。
帰りは、林野駅から東京駅までお召列車が運行されましたが、
戦後巡幸で初の夜行列車となり、天皇陛下は御料車に宿泊されました。
さて、全盛期の柵原鉱山はとても儲かっていました。
なにせ、質が良いので、掘れば掘るだけ飛ぶように売れました。
そして、地下には大鉱脈があることがわかっていました。
会社は、生産量を上げるために、最新鋭の機材をそろえました。
柵原鉱山資料館の地階では、鉱山内の様子が再現されており、
当時使われていた機材も展示されています。
会社は、福利厚生を充実させ、より多くの従業員を集めようとしました。
昭和30年代には1000戸を超える社宅がならびました。
当時としては珍しい軽量コンクリートブロックの社宅もできました。
鉱山で働く人の子どものために、学校ができました。
買いたいものは、何でもそろう供給所もありました。
バーや居酒屋、焼き肉屋などの飲食店もできました。
当時の岡山県で最大規模の3000人が入れる集会所もでき、
都会で人気の映画が上映されたり、
山神祭には、橋幸夫、三沢あけみ、三田明といった有名歌手を呼んで
歌謡ショーが開催されました。
仕事が有って、山間の町でも都会並みの生活ができる、
働く人たちにとって、柵原鉱山は魅力的な場所でした。
そして、この暮らしがずっと続くと誰もが思っていました。
しかし、柵原鉱山の繁栄は続きませんでした。
地中には、まだまだたくさんの良質な硫化鉄鉱があるのですが、
硫化鉄鉱が売れなくなってしまったのです。
新しい技術が開発され、石油精製時に水素化脱硫装置や硫黄回収装置を使って、
副産物として硫黄が生産できるようになったのです。
副産物でできるのですから、わざわざ硫化鉄鉱から硫黄を取り出す必要はなくなります。
柵原鉱山は急速に衰えました。
そして、ついに、1991年3月、柵原鉱山は閉山になりました。
採掘可能な鉱石は、まだ1000万トンもあり、今も地下に眠ったままです。
鉱石を運んでいた片上鉄道は、住民の足でもあったのですが、廃線になりました。
仕事を失った人々は、新しい職を求めて町から出ていきました。
時が流れ、柵原鉱山の繁栄を知らない世代も増えてきました。
しかし、ここには東洋一の柵原鉱山の町が確かにあったのです。
岡山県の中部、山間の静かな町に、かつて信じられないほどの賑わいがありました。
昭和の鉱山の町柳原に思いをはせ、
柵原ふれあい鉱山公園、柵原鉱山資料館を訪ねてみてくださいね。