大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で話題になっいる源平の戦い。
一の谷の合戦(兵庫県)、屋島の合戦(香川県)、壇ノ浦の戦い(山口県)は有名ですが
岡山県での合戦はあまり知られていません。
しかし、都落ちした平家は、戦いながら山口県の壇ノ浦まで行っているので、
途中にある岡山県を素通りしたわけではありません。
岡山県倉敷市では、3回の合戦があり、源平合戦の史跡が残っています。
①水島の合戦(合戦中に日食が起き、源氏が大敗)
②下津井の合戦(6か所で平家への反乱が起きたが、平家が平定する)
③藤戸の合戦(浅瀬を馬で渡った源氏が平家を撃破する)
まずは、水島の戦いから見ていきましょう。
水島の戦い
源義仲に敗れて都落ちした平氏軍は、一旦は九州の大宰府に入りますが、
行く先々で追討軍に追われ、今度は船で東に逃れます。
やがて讃岐の国(香川県)の屋島に入り、ここから再起を図ります。。
京へ上ろうとする平家の軍勢と、
平家追悼のために屋島に向かっていた源義仲(木曾義仲)の軍勢は、
寿永2年(1183年)閏10月1日、水島(岡山県倉敷市)でぶつかります。
当時の岡山県は、現在の姿とは大きく違っていて、
県の南部は「吉備の穴海」と呼ばれる海が広がっていました。
現在の岡山県の地形は、
江戸時代からの大規模な干拓で埋め立てられたものです。
源平合戦のころは、海岸線は総社市のあたりで、
岡山市も倉敷市も大部分が海の中、
水島、児島、玉島、早島など「島」という字がつく場所は、
文字通り、海に浮かぶ島でした。
水島の合戦では、海を挟んで、倉敷市玉島の乙島側に源氏、
柏島側に平家が陣取って、海上戦を繰り広げました。
源氏方 兵:約5000人、船:約100艘
平家方 兵:約7000人、船:約200艘
見ての通り、源氏方、源義仲の軍勢は、海上戦であるにもかかわらず
船を半分しか確保できていません。
しかも、山国木曽から来た義仲の兵たちは、海上戦に慣れていませんでした。
一方、平家は海上戦を得意としており、
船と船に板を渡して揺れないようにし、矢を射かけてきます。
そして、長年都に住んでいた平家が文化人であったことも
この戦いを有利に導きました。
水島の合戦の最中に、日食が起きたのです。
都に住む文明人である平家は、この日、日食が起きることを知っていました。
しかし何も知らない源氏の兵たちは、太陽が消えていくのを見て慌てふためきます。
結果は、平家の圧勝でした。
義仲は、この戦いで、足利義清、足利義長、海野幸広、高梨高信など
たくさんの有力武将を失ったのでした。